母方の祖母のお葬式

母方の祖母はながらく闘病生活を送っており、また数日前から危篤状態にあったことは随時連絡を受けていたために、心の中の覚悟はできていたが、ついにその日が訪れた。

4月9日11時半頃、半年以上入院していた母方の祖母が息を引き取った。享年93。
すぐに母からメール連絡があり、その後父からはその旨の電話連絡があった。
その頃、私は折しも大学時代のサークル同期の結婚式に参列していた翌日で、
新郎新婦が、せっかく久々に集まった我々大学時代のメンバー同士で旧交を暖めてもらうようにとの気の利いた計らいによって、松本駅前のビジネスホテルでの宿泊を用意してくれていたために、まだ松本市内に居た。
午前中に草間彌生の美術展を鑑賞にいってきた後、駅近くのそば屋にて昼食をとっていたときだった。

その段階ではまだお通夜と告別式の予定の目処が全く立っていなかったので、そこからの葬儀参列に向けての行動は取りようがなかったのだが、とりあえずは半日~1日以内には全て確定するはずであるために、すみやかに帰京していつでも動けるように準備した。

その時点でブラックスーツを着用していたので、極端な話、ネクタイを白から黒に替えるだけで準備は整い、また黒ネクタイもその場合に備えて常備していたために、身一つでどこでも赴ける状態にあった。
あとは会社に忌引希望の連絡を入れるだけ。

夕方、母から連絡があり、お通夜は10日午後18時からとのことであった。
告別式は11日の午前11時から。
できれば、納棺となる10日の15時頃までには来てほしいと。


会社に11日の忌引希望を連絡する。難なく休暇は取得できた。
翌日の午前10時頃には自宅を出発する予定となった。

いかんせん、お葬式というのは約10年ほど前に父方の祖母が亡くなったとき以来で、
この生涯においてはまだ2回目の経験だった。
服装や細かい持ち物からマナーなど、諸々において経験や知識が不足している。
足りないものはないか?タブーとなる事項についての対策は問題ないのか?
ネットで情報をあさる。といっても前日夜の土壇場になって、何か致命的な準備不足があってもなかなか対応はむずかしい。

結構肝心な部分である「香典」の準備を忘れていたので、急いで香典袋とお金の準備をする。そして、明日のお通夜ではまた睡眠不足となる可能性も考えられるため、この日は早めに床につく。

11日、新幹線で名古屋に向かう。
指定の斎場に着くと、両親や叔父叔母など、近親者がすでにそろっていた。
少し遅れて弟が到着した。
亡くなった祖母は、隣の和室で布団に横たわっていた。
まだ生きていて、単に眠っているかのようだった。
それもそうだ、ほんの昨日の午前中(=27時間ほど前)までは、呼吸をし、生きていたのだから。

まもなく湯灌が始まり、その後は手際よく死化粧が施される。
このときの対応してくれた葬儀屋のスタッフは男女2名だったが、ふたりとも若かった。

祖母は昨日亡くなるその瞬間、病院で娘2人・息子1人に看取られる形となった。
3名の子供に寄り添われ、そのままこのときに至っている。

存命中から、死に至り、いまこの瞬間にいたるまで、そばには娘と息子を中心とした
近親者が寄り添いつづけている。

亡くなる間際は痛みもあって苦しそうだったようではあるが、
親族が近くに居てくれたという事実については、祖母にとってはやっぱりしあわせなことだと思う。

祖母の遺体を見つめる。
顔も全身もやせ細り、眉間には皺が寄っていた。
顔は、まさに私たちのおばあちゃんに間違いはないのであるが、
元気な頃のおばあちゃんの姿からは、やっぱりちょっとかけ離れていたように思う。

半年前の9月頭、おばあちゃんに会いに行ったときは、
すでにデイケアサービスの施設で他のご老人達とともに暮らしており、
車椅子なしでは生活できず、やせ細っており、認知症も進行していたため、
すでに会話は成立しなかったものの、話しかければ答えてくれたし、
寿司が食べたい等の自分の意思の主張もはっきりできていたので、
比較的元気な印象はあった。

がんはこの頃から全身に転移しており、
その後は入院と手術を繰りかえしていた。
少しずつおばあちゃんの身体は弱っていったのだと思う。

それでもそこから半年以上も生き続けた。
生きることへの執着心や生命力はとても強かったのだと思う。

元気な頃のおばあちゃんは、性格が明るく、いつでもしゃべり続けていて、
娘や息子、孫やいとこ、近親者みんなのことが大好きで、
いつも心配をしてくれていた。

やさしくて、お小遣いもよくくれていた。
出かけたり、食べたりすることが大好きで、
小さな頃は遊園地や観光地などにつれていってもらったり、
近場のスポットから、信州や九州などの遠くの土地まで、
本当にさまざまなところに連れていってくれた。

私が現在、山や旅行がすきなのは、
こういった思い出が心の糧になって形成されてきたことは間違いない。

おばあちゃんを囲んで集まっていた私たち家族集団は、
いつもなんらかの軽いパニック状態にあって(笑)、
何かを決めようとしても、あーでもないこーでもないを繰り返して、わちゃわちゃして全く何も決まらないし、
みんな自分の言いたいことばかり好き勝手にしゃべっていて、誰も人の話を聞いていないような、いわばわけの分からないカオス状態ではあったけれども(汗)、
みんな笑顔がたえず、思い返せば幸せな光景ばかりであった。
旅行で出かけた先でも、家ですきやきを囲んでいたときも・・・

そう、深刻な空気になることがない集まりだった。

でも、おばあちゃんは時折、
自分が死んだときはこれを一緒に棺桶に入れてくれ、とか
死んだあとはこんなことを頼むよ、とか、
そういったことも言っていた。

そのときは、そんなこと言わないでほしい、まだ死なないでほしい、
と少し悲しい気持ちになっていた。

しかし年月の経過は無常なもので、
いまこうしておばあちゃんはついにこの世から去ってしまった。

人として生きていれば、すべての人にいずれは必ずやってくる儚い現実との対面。
今私たちは人生において節目となるステージにいるのだ。

もう二度と、おばあちゃんのあの声を聞くことはできないし、
おばあちゃんの笑顔をみることはできない。

しかし不思議と、悲しくて絶望的な気持ちになることはなかった。
それは心の中でおばあちゃんはいまも生き続けている感覚があるから。


死化粧を施してから、木の棺に入れるときに、
おばあちゃんの遺体を持ち上げて運ぶ作業があった。
身体は硬くて冷たくなっていた。

斎場の遺影の前に棺を移動させて、そこに安置する。
棺には蓋をしているが、顔の部分だけは観音開きになっていて、
おばあちゃんのお顔をみることができる。


私と、従姉妹(母の妹の長女)の2人は、会場の受付役を
仰せつかったため、その後は会場受付にいた。

弔問客の住所・名前の記帳と、香典の受付・管理、
来訪者と香典のみの方に対しての返礼品のお渡しを行う。

弔問の客は、近所に住む数人の老人会の人たち以外はおらず、
通夜もしくは告別式に列席する親族だけであった。

祖母の姪にあたる勝子さん(仮名)というひとが訪れた際は、
棺にむかってまっすぐに駆けつけて、祖母の顔をみるなり泣き崩れた。

もちろん、初対面となる親族も多い。
多くのおじさんやおばさんは、誰が誰なのかさっぱりわからない。
名前だけを聞いたことがあるひと、幼少期に1度だけ会ったことがあるひともいただろうが、その場ではまったくわからない。

おそらく街ですれ違っても、完全に他人。
親族だとは気づきもしない。

血がつながっていても、会ったことも話したこともなければ、それはお互いに完全な他人。そんなことを思った。

一通り集まると、会食が始まった。
精進料理のような、しかし様々な種類の食べ物と、そしてお酒が振舞われた。

それこそ、数年ぶりに会う叔父や、
数十年ぶりに会うはとこ(?)との再開はなつかしく、会話には花が咲き楽しかった。

夜は斎場に宿泊するのは男性、
今はもぬけの殻状態となっている近くにある祖父母宅に女性が泊まることになり、
自宅が近くのひとは車などで帰宅することになった。

私は父と叔父、それと母の従兄弟にあたる3兄弟とともに、斎場に宿泊した。
夜通し、おばあちゃんとともに過ごす。

人が掃けて静かになり、みんな寝静まった夜、
やっとゆっくりとした時間が訪れた。
棺の前に立ち、おばあちゃんの顔を改めてまじまじと眺めてみた。
がらんとした告別式会場に、おばあちゃんと私だけ。

そこに立ち尽くしていると、自然と涙が零れ落ちていた。

 


翌日、朝8時頃に起床した。
父と叔父はもう少し早く起きていたようだが、
特段なにもすることはないので、各々が好き勝手な場所で
行ったり来たりしながら過ごしていたようだ。

とりあえず急須にお湯を入れて、お茶を飲んだりした。
はす向かいの席に、母の従兄弟の長男にあたる白髪のおじさんが座ってきたが、
何を話していいかもわからずしばらく無言だった。

むこうから一言二言声をかけてきたので、たわいのない会話を少々したが、
女性組が続々斎場に現れたので、すぐに会話は終了した。

沈黙が破られてにぎやかしくなる。
おばさんたちというのは常になにかしらしゃべり続けているものだ。

斎場のスタッフも出勤してきて、朝食の用意がされる。
告別式は11時から開始だが、それよりも早い時間帯で遠くから参列される親戚もいた。

父方の兄家族も当日現れた。
私の同い年の従兄弟も来た。
それこそ弟の結婚式当日以来なので7年半ぶりくらいになるが、
私は受付役であるし、常に同じ場にいることはできないので、
それほど話す時間はなかった。

従兄弟は幼少時から面白いキャラクターだったが、いつも久しぶりに会った瞬間は
なぜか人見知りをしてしまい中々会話が始まらない。
打ち解けるまでにいつも時間がかかる(笑)
その性格は今も変わっていないようで、やっぱりゆっくりした時間がない状況では
円滑な会話は成立しなかった。
まあお互い様ではあるけれど・・・

告別式は約1時間ほどで、お坊さんが2名で荘厳な雰囲気をつくり読経を行う。
近親者から2名ずつ、順番に前に出てご焼香を行う。
基本的な作法は、前日に斎場スタッフから説明もあり、軽いリハーサルも行っている。


最後に花入れの儀があり、各々が別れ花を入れる。
ここでみんながはじめて泣き崩れた。
私は最後に、冷たくなったおばあちゃんの顔をなでて、
「おばあちゃん、ありがとうございました」と言ってお別れをした。

式が終わると、いよいよ出棺。
棺をかついで霊柩車に運ぶ役割は、直系の孫あるいは力のある男性となっている。

外はあいにくの寒空のもとの雨模様で、棺を運び込む作業は少々大変であった。
そこからは火葬場までの移動となり、親族一同はすでに待機していた大型バスに乗り込み、霊柩車とともに移動する。

今の霊柩車は黒塗りの一般車(ワゴン)で、いわゆる装飾された霊柩車ではない。
ひとめで霊柩車とわかる車両が街中を通過するのは、市民にとって気分のよいものではないので、名古屋市の条例で、この慣習が廃止されたのだそうだ。

火葬場までの移動は約20分ほどで、名古屋市の南のはずれにある郊外型大型ショッピングモールの隣の、一見市民体育館を思わせるような巨大で新しい火葬場であった。

ガラス張りの建物の中も清潔そのもので、火葬場のイメージからはかけ離れていた。
霊柩車が到着すると、速やかに火葬室に棺が運び込まれる。

納めの式で最後の焼香を行う。
スタッフからの火葬についての軽い説明があり、いよいよ棺は炉の中へ。
炉の扉が閉まると、その横にある丸いボタンを押すと火葬がはじまる。

スタッフがボタンを押すこともできるが、希望があれば親族が押してもよい。
喪主である叔父が、そのボタンを押すことに。

叔父はボタンを押す直前、やや躊躇いもあったが、すぐにボタンを押した。

その後、2階にある広間に移動し、
しばし雑談ながらにお茶とお菓子をいただく。

そうしている間におばあちゃんの遺体は焼かれていると思うと、
居た堪れないものもあったが、

つい先ほどまであんなに泣き崩れていた親戚たちが、
いまは普通に笑いながら雑談している光景をみて、なんとも言えないものを感じた。
葬式とは、こういうものなのだ。

約1時間半ほどで、火葬は完了した。
再び火葬室へ。

炉から出てきたおばあちゃんは、
完全な白骨のみと化していた。

棺桶や、その中に入っていた様々なものは、
すべて跡形も残っていなかった。

これから収骨を行い、拾った骨を骨壷に納めてゆく。
使用する箸は、左右で竹箸と木箸で種類と長さが異なっていた。
喪主が、おばあちゃんの喉仏(第二頚椎)を最初に拾ってから、
あとは順不同で、足のほうの骨から順番に、なるべく多く拾ってゆく。
大きな骨を拾うときは、骨壷に綺麗に収まるように、時に箸で押しつぶしたりしながら
拾ってゆく。

最後に頭蓋骨を拾うが、
頭蓋骨は非常に綺麗にその形をとどめていた。

しかしスタッフの手で、箸でおでこのあたりを押すと
あまりにもあっけなく、ばらばらに崩れ落ちた。

これを最終的に拾い上げて、骨壷一杯となり、
収骨は終了した。

拾い切れなかった残りの骨は、名古屋市のほうで処分することになる。

位牌は叔父が、遺影は叔父の妻が、骨壷と分骨した木の入れ物は母が持ち、
火葬場を後にする。

斎場に戻ってきたあとは、再び食事会となり、
これ以降は各々のタイミングで帰宅してゆくことになる。

私は17時頃に、父とともに会場を後にした。
最後に頂いたカサブランカの花束は、帰宅後に大切に生けることにしている。
強い香りとともに、いま少しずつその花びらを開き始めている。